第14章 イーリス・リィプス
UC.0087年6月6日、ショールはエリナとレイを伴って月のフォン・ブラウンにあるアナハイム・エレクトロニクスへ機体のデータ引き渡しのために潜入していた。そこでエネス・リィプスの妹、イーリス・リィプスの姿を見て、ショールは彼女を監視の手から救い出すことに成功する。そして4人はグラナダで待機任務に就いているティルヴィングに無事戻ることが出来た。ティルヴィングに戻ってきた時点で、日付は6月7日に変わっていた。
ショール、レイ、エリナの3人はこれまでの顛末を艦長に報告する為、艦長室に向かって歩いている。イーリスは先程の急な状況の変化に対応し切れておらず、色白な顔からより血の気を引かせていた。
「大丈夫だ、君は捕虜なんかじゃない。それに艦長は人格者だ。君に優しくしてくれる。」
ショールは左手で不安そうにうつむいているイーリスの右手をぎゅっと強く握ると、イーリスの方を振り返らずに言った。イーリスは、兄の親友であるショールとエリナが兄と敵対勢力であるエウーゴに属していることは先程まで知らなかった。かつて淡い恋心を抱いた相手と兄が戦っていたことを知ったのである。これからの事への心配より、むしろこの事実に対する動揺の方が大きかった。エウーゴとティターンズは今や戦争状態であり、お互いに殺し合っているのである。
「ふ〜ん、ショールってそんなに優しかったんだ?」
半ばからかい気味にエリナがショールに詰め寄る。顔は意地悪く歪んでいた。赤の他人であるレイから見ても、エリナから悪意は一切感じられなかった。
「・・・言ってろよ。イーリスがこっちにいればエネスだって・・・」
言いかけて、ショールは言葉を止めた。本人がいる前で話すような事ではないと思いだしたからだ。それに、イーリスがこちらにいたとしても、連邦の内部からの浄化を指向するエネスが、ティターンズから離反することはないだろうとも思える。心配なのは、人質を失ったティターンズがエネスをどう扱うかであった。自然とショールは無口になって、ただイーリスの手を握っているだけであった。
艦長室のドアの前で、ショール達はドアをノックしようとその動作を仕掛けたとき、そのドアがまるで自動ドアであるかのように開いてしまった。艦長の厳つい顔がショールの眼前にあった。
「お、帰ってきたか。報告は中で聞こうじゃないか・・・そのご婦人は誰か?」
ログナーは見慣れない、軍人とは無縁そうな女性が軍艦の艦長室の前にいることに違和感を感じた。訳有りか・・・ログナーはこの部隊は何故こうも厄介事を持ち込むのだろうかとややうんざりしていた。無論ログナーは彼女がエネスの妹であることを知らない。場合によってはクレイモア隊にとって重要な人物となる可能性を持っていることも・・・
「システムのデータに関しては了解した。君たちに一任しよう。では、次の報告を聞こうか?」
ログナーの言う次の報告とは、言うまでもなくイーリスのことである。ショールは後ろに控えていたイーリスを手招きして呼び寄せると、ログナーの前に立たせた。3人の予想に反して、イーリスはいつもの冷静さを取り戻しており、ログナーの強面には萎縮していなかった。このあたりは流石エネスの妹だな・・・ショールは妙に納得していた。
「私はイーリス・リィプス、ティターンズの命令でフォン・ブラウンに連れてこられていました。」
イーリスは完結に自分のことを話した。
「命令かね?」
「兄であるエネスが私に戦禍が及ばないように、そう手配してくれたと護衛の人は言っていました。でも、実際は違うようです。」
「人質だったのだろう。まぁいい。部屋を用意するからそこに入ると良い・・・一応保護観察扱いにはさせて貰うがな。」
イーリスはログナーのその申し出は、ありがたかった。少なくともティターンズほどひどい扱いはしないだろうと、ログナーの言葉には信用させる何かがあった。
「わかりました、ありがとうございます。」
ログナーが優しい人だと解って、ログナーの配慮に感謝していたから、イーリスが答えたのはそれだけであった。そして頭を下げて言った。
「宜しくお願いします」
3人は密かに顔を見合わせて、顔をほころばせた。
イーリスに与えられた部屋は、パイロット用の個室からはそれほど離れてはいない場所にあった。中身もそれほど変わらない。イーリスにとっては、数日間滞在したホテル「スヴァースズ」の部屋などよりよほど好感を持ったくらいである。変わった点と言えば、監視カメラがずっと動き続けていることくらいであっただろうか・・・これはイーリスの知らないことであったが、監視カメラこそ動き続けてはいたものの、その画面を監視することに、ログナーは人手を割かなかった。監視しているというプレッシャーだけで充分、それ以上やるのは可哀相だというログナーの軍人の範疇からはやや逸脱した厚意であった。その中にはエネスの妹だからと言う信頼のようなモノがあったことは確かであった。
これほど信用できる敵手を持つというのは、ある意味幸運なのかも知れない。ショール達はそのことを知っていたから、ログナーの厚意に感謝した。ただ、保護観察扱いなので彼女が部屋の外に出るときは護衛兼監視をつけねばならなかった。それでもショール達と行動を共にするときは彼らがその役目を負うことになっていたので、イーリスはこれでいいと思っていた。
ショール達はイーリスの部屋の片付けと荷物の整理を手伝って、それが終わると彼女の部屋を後にした。時間は既に6月7日午前1時を回ってはいたが、彼らは色々あった1日の疲れを感じると同時に、自分たちが空腹である事に対する我慢の限界を迎えていた。イーリスの処遇が良かった事からの安心が産み出した余裕だったのかも知れない。3人が既に活動時間を越えている士官食堂に行かずに、自動販売機のあるリクライゼーションルームに向かったのは、成り行き上当然であった。
「はぁ〜疲れたぁ〜」
エリナは真っ先に円形のテーブルを囲っている椅子の一つに座ると、両腕を伸ばして頭の上に組んで伸びをしていた。ショールとレイは自動販売機で6個のハンバーガーと3人分のコーヒーを購入し、テーブルに持ち込む。
「これを喰ったら、やっと安心して眠れるって訳だ」
レイはエリナの右に座ってそう言い、、ショールはエリナの向かいに座って食事の用意を調えていた。誰からもなく、3人はほぼ同時にハンバーガーを手にとって食べ始める。重力の生じる月やコロニー、あるいは地球で食べられるハンバーガーと違い、艦内で売られているそれは噛んでも崩れない堅さを持っていた。別に解凍されていないのではなく、無重力状態で食することを前提にしているのだから、当然と言える。
「でも、そうは安心していられないぜ?」
ハンバーガーを1個平らげたショールは、思い出したようにレイに話しかける。
「どういうことさ?」
「イーリスの話では、旧ジオンのア・バオア・クー要塞がルナII方向に移動しているらしいんだ。この前の強行偵察でも解ったけど、グリプスも移動している。明日くらいにはルナIIに到着だそうだ。」
ショールは言いながら2個目のハンバーガーの封を開ける。
「ルナIIに何かあるんだな・・・といっても、オレ達が月でこんな事を言っても、何もできないじゃないか。」
「そりゃそうだ・・・ひょっとしたらエネスもそこにいるかも知れないな。」
「どうして解るの?」
エリナはハンバーガーを1個平らげた後、2個目をショールに渡してから口を挟んだ。もう食べ物はいいという意思表示だとショールは知っているので、黙ってそれを受け取る。
「そうだな、確信はないけど・・・人質を失ったティターンズは、エネスが下手な動きを出来ないように自分の手元に置きたがるんじゃないかと思うんだ。奴らは猜疑心の塊のような奴らだからな。」
「手元って言うことは、ルナIIがティターンズの重要拠点になるってことよね?」
「そう考えるのが一番自然だろ?エネスは苦しくなるかもな。エネスやモートン少佐としては、ティターンズが権力を拡大させれば、それだけティターンズの改革が連邦の改革につながり易くなるけど、その権力が大きければ大きいほど御し得なくなる。だから、改革できる時期と出来なくなる時期の境界線を見極めなくてはならなくなるんだ。エネスでもそれは簡単じゃない。」
「いつでもこっちに来れるように逃げ道を作ってあげてるんだ?」
「まぁそう言う事かな。出来の良い友人を持つと苦労するよ。」
エリナの問いに、ショールは半ば嬉しそうにエネスのことを言った。
「でもな、ショール・・・ティターンズがリィプス中尉を処分しようとしたらどうする?」
レイはショールの考えているもう一つの可能性を口にした。実はショールが恐れているのはその点だった。もっとも、その可能性は低いと考えてはいた。
「人質がいなくなったら危険分子と見なされる可能性もあるからな。だから、オレがとった行動は正しいとは限らないって事だ。」
しかし、そう言いながらもショールは後悔していなかった。いくらエネスでも、スペースノイドにあそこまでやれるティターンズの改革が成功するとは思っていなかったからだ。エネスに解って欲しいのは、そのことなのであった。エウーゴが先手を取ろうとしているのは、民心を得ることだけではなく、ティターンズが権力を拡大しない内に叩いておきたかったと言う事情もあった。
ティルヴィングが未だグラナダでの待機任務に就いていた6月8日、グリプスを分割した片割れであるグリプス2と旧ア・バオア・クー要塞はルナIIに合流し、「ゼダンの門」と呼ばれるティターンズの宇宙最大の拠点が完成していた。ティルヴィングがその「ゼダンの門」に接するのは、その数ヶ月後である。
バスク・オム大佐は、その「ゼダンの門」構築の指揮を執っていたが、その時に月で起こったある出来事の報告を受けていた。
「それで、貴官はおめおめとエウーゴに人質を奪われたというのか?」
バスクはルナIIにある自分の執務室のモニタ相手に怒りをこらえて尋ねた。
「ハッ!申し訳ありません!」
バスクが話している相手、アルベルト・リンドバーグは、そう答えるしかなかった。
「申し訳ないだと!?・・・それで、連れ去った者達はエウーゴに間違いないのだな?」
次第にバスクの鼻息が荒くなってくるのが、モニタ越しにリンドバーグにも伝わった。自分の軽率さをこれほど恨んだことはない。
「彼女が『ショール』という名前を呼んでいました。間違ありません。」
「・・・解った。貴官はそのまま月に留まってエウーゴの動きを監視しろ。エウーゴの人間がフォン・ブラウンにいるのも気になる。」
「了解しました。」
敬礼してから、リンドバーグは胸を撫で下ろした。予想していたほど、バスクの叱責を買わなかったからだ。
自分の軽率さから生まれた不祥事だったことは自分でも解っていたので、これからは私情を任務に持ち込むのはやめようと決心していた。
「ゼダンの門」完成後に多忙を極めたのは、エネス達ニューデリーのクルーも同じであった。日付は6月9日に変わり、周辺の哨戒任務からア・バオア・クー要塞に帰還したニューデリーを出迎える人物がいた。バスク・オムである。ニューデリーが帰投した後、バスクは数人の兵士を従えてニューデリーに入っていった。バスク達は他には目もくれずに、ブリッジに入っていった。
「ご苦労だった、モートン少佐。」
「バスク大佐!?ハッ!ありがとうございます。大佐自らお越しになるとは・・・小官に何かご用でも?」
「レナード・モートン少佐、貴官を拘禁する!」
バスクの言葉に、側にいたエネスも、その他のブリッジクルー達も驚愕した。しかし、バスクは他のクルーが言葉を発する暇を与えなかった。従えてきた兵士達にライフルを構えさせたのである。エネス達は黙っていることしかできなかった。
「どういうことですか、大佐!?」
モートンも、ただ信じられないと言った表情でバスクに問いただすことしかできなかった。
「貴官にはエウーゴに関する調査報告の数々を偽った疑いがある。これが事実なら反逆の意思無しとはいかんだろう?」
バスクはかすかに口元を歪ませた。それに気付いていたのはエネスだけであった。
「他にも調べれば埃が出てくるかもしれんからな。ここで拘禁させて貰う。」
「・・・・・・・・・・・・」
「連れて行け!」
無言になったモートンの両腕を、兵士が抱えてブリッジのキャプテンシートから引きずり降ろす。
「大佐!」
武器による威圧から逃れたエネスがバスクに向かって叫んだ。バスクは少しだけ振り返ると、またも口元を歪ませてエネスに向かって言った。
「エネス・リィプス大尉・・・」
「はっ!?」
「本日付けで貴官は大尉に昇進だ。そして、貴官がこの艦の指揮を執れ。」
「私が、でありますか?」
「そうだ。今更新しい指揮官をよこすほど、こちらにも余裕はない。優秀な兵士である貴官が頑張ってくれれば、こちらもありがたい。」
エネスは急な命令に、戸惑いを覚えた。(バスクは何を考えている?)しかし、今のエネスはティターンズの一兵士でしかない。この命令を拒絶する権利がないのはエネス自身でも十分に理解していた。
「・・・・・・・・了解です。」
「頼むぞ、エネス大尉・・・・クククク・・・」
エネスはそのバスクの僅かな含み笑いの意味を解せぬまま、その後ろ姿を見送るだけであった。
第14章 完 TOP