第16章 逃  避

 ネリナ・クリオネスがヴェキの監視役でありながらもフォン・ブラウン潜入に同行しなかったのは、シンドラに実務処理を行える人材が決定的に不足していたからだ。もしヴェキがひとりでの潜入を選択していれば、ネリナはシンドラのことは二の次にしてヴェキに同行を申し出ただろう。だがヴェキは、シシリエンヌのクルーを同行させることを選んだ。ネリナはヴェキの出発の少し前にコルドバに接触し、同行するクルーにヴェキの監視を頼んだ。しかしながら、ネリナは自分自身でヴェキの側にいられない事から生まれる喪失感を自覚せずにはいられなかったのは確かだと、自分でも思う。
「ヴェキはちゃんと戻ってくるかしらね・・・」
 艦長室にはたった今呟いたネリナの他に、クローネがいた。もっとも、艦長室の主はクローネの方なので、クローネの他にネリナがいたと言った方が的確だろう。
「そんなにヴェキの側にいたかったのか?なら言えば同行させてやったのに・・・」
 クローネの冗談まじりな冷やかしに、ネリナは本気で動揺した。
「バカ言わないでよ。ヴェキはあくまで監視の対象でしかないわ。」
「ははは、判ってるさ。」
 ネリナはここでようやく、自分がからかわれている事に気付いた。
「・・・ま、私が側にいたところで、ヴェキの記憶には干渉できない事くらいは、私にも判ってるわよ。」
「心配をすると、悪いことがかえって現実になったりするもんさ。待ってようじゃないか、ヴェキの帰還を・・・」
 クローネはそう言って、自らがやるべき仕事を再開した。

 エリナ・ヴェラエフがアナハイムビルの入口で見かけたヴェキの横顔は、エリナがよく知る人物のそれだった。
(・・・似ている・・・あの人に・・・)
 ふと前に視線を戻すと、ファクターとナリアは案内役のジョン・マツダと雑談をしており、自分たちの後ろでエリナが心臓の鼓動を急激に早めていることなど、知りようもないと言う感じだった。エリナの頭の中には、今持っている疑問を確信に変える事しかなかった。ファクター達に言ってみようと一度は思ったが、再び後ろを振り返るとヴェキ達は途中で右に曲がって、今にもエリナの視界から消えそうだった。
(・・・ひょっとしたらあの人が生きているかも知れない、それとも自分の勘違いかも知れない・・・それを確かめなくちゃ・・・私ひとりでも・・・)
 そう思うといてもたってもいられず、なぜか前にいる3人の仲間に気付かれないような足取りをとったエリナは、ひとり静かに列を離れてヴェキ達の後を追い始めた。ファクター達がエリナがいなくなったことに気付いたのは、そのおよそ10分後だった。

 ハヤサカがエネス達を連れてアナハイムビルから出てきたのは、ファクター達がラウンジを出た10分後だった。ハヤサカ達が駐車場に到着した時には、本来なら既にファクター達がエレカで先発してフォン・ブラウン工場に向けて出発している・・・はずだった。だがハヤサカ達の目の前に現実として、駐車場を右往左往するファクター達の姿があった。怪訝に思ったエネスが、ちょうど目の前を通過したファクターに尋ねた。
「エリナがいない?バカな、ここはアナハイムの敷地内だぞ・・・」
「ビルから一緒に出たのは、間違いねぇ。だがよ、駐車場まで歩いた数分間に自分でどこかに行っちまったとしか、言いようがねぇんだ。」
 ファクターの焦りは、エネスのそれとは次元が違った。迷子を捜す程度の事だと思っているのだろうか。
「さらわれた、なんて事はないのか?」
 エネスの詰め寄り方はいつものエネスらしくなかった、とレイは思う。
「それは絶対ない。オレとナリア、ジョンが並んでてそのすぐ後ろを歩いていたんだ。誘拐されたのなら、ちょっとした騒ぎになってオレ達も気付くだろ。」
 ファクターもまた、エネスらしからぬ動揺ぶりに少し戸惑っているようだった。エネスは舌打ちした。
「チィッ・・・オレの側に置いておくべきだったか・・・」
 エネスはファクター達ではなく、自分の迂闊さを呪った。『ショール帰還せず』・・・あの出来事以来、エリナからは本来の落ち着きや集中力など、精神力の減退が時間を重ねるごとに目に余るようになっていた。エリナの夫の親友だった自分が、エリナを気遣うべきだったのだ。
「後悔してもしょうがないな・・・とにかく敷地内からはまだ出てないはずだ、探すぞ。主任、ジョン、悪いがあんたらは先に工場へ向かって作業を続けてくれ。オレ達はエリナが見つかり次第工場に向かう。」
 この場の指揮権はファクターにあるべきだったはずなのだが、今の状況を主導しているのはエネスだった。
「しかし・・・」
「エリナはタダのメカニックじゃない。ショール・ハーバインの遺志を唯一、継ぐことのできる人物だ。万一、エリナが事件に巻き込まれていたとしたら、手遅れになることだけは避けなければ・・・」
 エネスが言い終わらないうちに、ハヤサカは頷いて見せた。
「判った・・・オレはひと足先に工場に向かう。ジョン、お前は付き合ってやれ。」
 ジョンをあたかも邪魔であるかのように掌をひらひらと揺らし、ハヤサカは駐車場に停めてあったエレカに乗り込んだ。

 エリナとヴェキ達はアナハイム・エレクトロニクスの敷地内からは既に出ており、フォン・ブラウン市内の飲食店街を歩いていた。ランチタイムと言うこともあり、雑踏のおかげで尾行が悟られることもなかったが、その混雑がかえってエリナが男の正体を突き止めるどころか、まともに顔を見ることすら困難な状態にしていた。一度チラリと男の横顔を見ただけなので、男の顔がショール・ハーバインそっくりだと思ったのはエリナの錯覚だったかも知れない。エリナはそれならそれで良いと思ったが、もし本当に自分の勘が正しければ、ショールが生きていたら、そう言う期待がエリナをただ突き動かしていた。この時のエリナの精神は、そう言う意味では正常ではなかったかも知れない。
(・・・港湾ブロックの方向に曲がった?)
 エリナが確認したとおり、飲食店街から横道を抜けて港湾ブロックの方向に、3人の男は進路を変えた。この辺りの横道は表通りと違って人通りは少なく、尾行が発覚したら面倒なことになるかも知れない・・・エリナは思って、先程よりも少し距離をとった。例え勘違いであったとしても、尾行されて気持ちの良い人間などいない。
 尾行を初めて何分が経過しただろうか・・・ふと思って、看板の陰に隠れたエリナは左腕につけている時計を見た。この時計は昨年の4月、エリナの誕生日にショールからもらったモノだ。アナハイムビルを出てから、およそ20分が経過していた。
 物資搬入口のすぐ手前に差し掛かったところで、3人の男達が立ち止まった。自分の存在に気付いたのか、とエリナは一瞬肝を冷やしたが、それは杞憂に終わりそうだった。3人の中で先頭を歩いていた床が振り返ってすぐに腕時計を見て、何やら話し始めた。人通りもなく、エレカの通りもほとんど無いこの区画では、ちょっとした話し声も左右に塞がる建物の壁に反響して、エリナの耳に届いた。
「シンドラへの部品の搬入はそろそろ始まっている頃だな・・・物資搬入口へ急ぐか。」
 男、ヴェキはエリナの方向にに振り返ったので、自然とエリナは看板の陰から男の顔を盗み見ることができた。
(!?・・・やっぱり・・・声も顔もあの人にそっくりだわ・・・でも、ちょっと雰囲気が違うようだけど・・・・それでもショールの顔・・・でもなんでアナハイムに?・・・それにシンドラってネオジオンの艦じゃない・・・どうして?)
 ヴェキの顔がショール・ハーバインにそっくりだったのを確認できてから、エリナの中には様々な疑問が浮かんでは消えていった。ショールに似た人物の従者らしき男の喋り声が聞こえて、エリナの疑問の渦は、その渦巻く速度に更なる加速を得た。
「ですね・・・私らも急ぎませんと、港湾部や入国管理局の連中が疑問を持つかも知れません。なんせここはエウーゴの巣窟ですからね。」
 エリナはその聞き取りにくい特有の訛りを知っていた。
(まさか、そんな・・・ジオン訛り!?)
 ショール・ハーバインは、少なくともエウーゴでは死んだ人間である。そのショールがエウーゴの人間と繋がりがあることは、到底考えられない。だとしたら、ショールに似た男に従っているのは、ジオンの人間しか有り得ない。エリナは思わず、身体を支える腕に余計な力を入れてしまった。スチール製の看板は音を立てて倒れ、エリナの尾行対象達がエリナの存在に気付いたのは当然であった。


 ハヤサカと別れた後、エネス達はエリナを探すために二手に分かれた。エリナが行方を眩ましてからそれなりの時間が既に経過しており、アナハイムの敷地内から出たかも知れなかったし、ひょっとしたら敷地内のどこかで面倒ごとに巻き込まれているかも知れなかった。そこでエネス、レイ、ナリア、ファクターの4人が外を、イーリスとジョンがアナハイムビルの周辺を探すことにした。エネスが持っていたショール、エリナと共に写っている写真のコピーを渡されたイーリスがビル入口の受付にいる守衛に話を聞いてみても、どうやらエリナはビルの中には戻っていないようだった。だとしたら、ビルを出てすぐを直進したナリア達とは別のルートを通った可能性が極めて高い。
「マツダさん、左から行って下さい。私は右を・・・」
「判りました、あとでここに落ち合いましょう。」
 2人は左右に分かれた。
(なんでこんなに不安になるの・・・?)
 イーリスは漠然とではあったが、自分が見つけられる範囲にエリナがいないのではないかという絶望感を覚えずにはいられなかった。それでもイーリスはエリナの名を呼び続けた。

 アナハイムの敷地内から出て、エネス達は市街地に入り込んだ。通行人を無作為に選んで写真を見せたり、店員に尋ねてみたりしたが、それでも目撃証言はなかなか得られなかった。
「ここを通った・・・ホントか?」
 初めての目撃証言は、飲食店街に入ってすぐのところにあるカフェバーの店員から得られた。それにエネスやレイ達の表情も心なしか明るくなった。これで何者かに連れ去られたという可能性はなくなったわけだ。エリナが自ら歩いてこの場所を通ったと言うことだ。それを考えるとエネスは、レイほど無条件に喜んではいられないと思った。エリナが自ら動いたからこそ、動機が判らないだけに危険なのではないか。
「エリナ、なぜひとりで行ったんだ・・・」
 エネスの呟きは、レイには聞こえなかった。ファクターとナリアはその間にも周辺を聞き回っていたが、それ以上の証言は得られなかった。だがそれは、無理もないことだ。この時間帯の飲食店街の混雑ぶりを考えると、エリナを目撃した人間がこの周辺にいる可能性の方が低い。むしろ店員がエリナを見かけたことを記憶していた方が奇跡的だったと言えた。
「とにかく、固まっていてもしょうがない。散らばって探そう。」
 ナリアの提案に皆が頷き、4人は更に分かれた。

「なんだお前は?」
 ヴェキは近付きながら、エリナの風貌をいぶかった。長く整った金髪と色白で端正な顔は、軍人や連邦政府の諜報部の人間には到底見えない。外見で人間を判別することは、一概に正しいとは言えない。だがヴェキは、人間に漂う雰囲気から漠然と人間の色というのが判る。施された強化処置の賜物である。
 そのヴェキに従って、2人の部下もエリナに近寄り始めた。エリナは逃げようと思ったが、看板の陰にしゃがんでいた状態だったので、すぐに立ち上がって逃走をはかっても、すぐに追いつかれることは明白だった。
「・・・ショールなんでしょ?私よ、エリナ・ヴェラエフ!」
 エリナはなんとか声を絞り出した。
「・・・ショール?そう言えば前にもオレをショールと呼んだヤツがいたな・・・生憎、オレはショールじゃない。ヴェキだ・・・逃がすな!」
 ヴェキが言ったが早いか、2人の部下は逃げようと立ち上がったエリナを素早く取り押さえた。うつ伏せの状態で両腕を背中の後ろでガッチリと押さえられ、抵抗はできないとエリナは思った。
「ショール、どうしてよ、私が判らないのッ!?」
「同じ事を言わせるなよ、ヴェキ・クリオネスだ。別に忘れてくれてもいいけどな。」
 聞き流しながら見上げて、ヴェキの顔を凝視した。相手から見れば、エリナに睨まれているようにしか見えない。
(ショールにしては、なにか雰囲気が違う・・・なんだろう?)
 ここに来てエリナは、違和感を覚えた。ヴェキが周囲を欺いているようには見えない。やはり横顔を見たときの感覚は錯覚だったのか、エリナは思った。
「おい、立たせろ」
 ヴェキに命じられて、エリナは後ろ手を極められたまま立たされた。
「逃げないと約束するなら、拘束はしない。」
「・・・私を調べても無駄よ。」
 それはエリナが辛うじて言えた言葉だ。
「そういう強がりを言える女は、好きだな・・・繰り返して言うが、殺しはしない。もしお前がエウーゴなら色々と聞かせてもらう話もある・・・だから連れて行くんだ。」
 エリナはため息をついて一言、逃げないわと言った。
「受け取り物資の処理があるから、とりあえずオレは先に物資搬入口に向かう。お前らはこの女を連れて、後から来てくれ。」
 言って、ヴェキは小走りに物資搬入口に入った。

 エネスとレイはちょうど飲食店街から裏通りを抜けて、物資搬入口の方向へ走っていた。もしかしたら人通りがないからこそ・・・その想いだけがエネスをここまで誘導してきたのである。
「エリナ、どこだ!」
 何度となくエリナの名を呼ぶが、いっこうに反応はなかった。自分の思い過ごしか、エネスが思い始めていたときには、既に物資搬入口の手前まで来ていた。
「・・・・エリナ!」
「エネス?」
 エネス達2人の目の前、物資搬入口のゲートの先に、エリナの姿を見つけた。レイもこの奇跡に驚いている暇はなかった。エリナの様子を見れば状況は一目瞭然だったからである。
「貴様等ァッ!」
 エネスは思わず腰に手をやったが、腰にホルスターはなかった。この街が非武装中立であることを思い出して、手を引っ込めた。続けて全力で走って追いかける。
「エネス、私は大丈夫!だからすぐにティルヴィングを出撃させて!」
 叫ぶエリナを尻目に、シシリエンヌのクルーの2人は自分が連行している女の仲間が来たと即座に悟って、慌ててゲートから離れて物資搬入口の奥へと入り込んでいった。直後にゲートが閉められ、エネスとレイはそこで足止めを喰うことになってしまった。
「クッソォォォォッ!」
 ガンッ!とレイが殴りつけたが、一度降りたゲートは簡単には開かない。フォン・ブラウン市発行の通行許可証が必要なのだ。生憎、エネス達はそれを持ち合わせていなかった。エウーゴが堂々と入国できるようになった事が、この際はエネス達にはマイナスになったのである。
「エリナァァァァァッ!」
 最大のボリュームでエネスは叫んだが、どうしてもエリナの最後の一言が引っかかっていた。
「なんてこった!目の前で・・・」
 レイの悔しさがこの時に爆発して建物の壁を力一杯蹴り上げたが、それはただ自爆を招くだけだった。そして、ファクターとナリアに遅すぎた連絡を携帯連絡用端末で入電した。

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